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  1. 写真というのは、本当に、面白いんです。大の大人を、身を持ち崩すほどに夢中にさせる何かが、写真にはあるんです。
    私は写真を始めて10数年になるが、写真を始めて2・3年の初心者は、この写真が持つ”怖さ”を知らない、と思う。


    いくつか例を紹介しよう。
    古くは、明治期に写真界のパトロンとなり、自身も写真家として、我が国の写真界の発展の礎を築いた鹿嶋清兵衛。彼は大阪の有数の酒問屋の御曹司であったが、あまりにお金を写真に注ぎ込んだため、のちに家から絶縁され、女と野垂れ死にをした。
    あるいは篠山紀信、立木義浩、森山大道らを発掘し世に送り出した、伝説の『カメラ毎日』編集長・山岸章二。彼は若くして自殺している。
    自殺といえば、「写真と寝た女」ダイアン・アーバスが有名だ。彼女の写真は、そのオマージュがキューブリックの映画(『シャイニング』)に使われたりして有名だが、自殺する自分の姿を写真に撮ったという噂がいまだにある。

    そして写真は、日本が世界に誇る数少ない芸術のひとつだが、日本の写真界も死屍累々である。

    「彼は世界に体を貸し与えている」とか、「彼は風景に火炎ビンを投げつけている」と言わしめた写真家・中平卓馬。彼に関しては以前文章を書いたが、彼は自分の写真を燃やしたその日の晩に、酒を飲みすぎて昏倒し、逆行性健忘症になった。
    また私が密かに、日本で最も優れた写真家だと思っている深瀬昌久。彼もまた、まるでそうなることが不可避であるかのようなキャリアを残し、ある晩行きつけの酒場で転倒し、頭部に重症を負った。ちなみに彼は、今なお多摩の病院で療養中である。

    これらの例は極端だとしても、なぜ森山大道が、キャリアの絶頂で『写真よさようなら』という作品を出さずにいられなかったか、考えてみるのも無駄ではないだろう。森山は、『写真よさようなら』を出した後プチ鬱状態になり、数年間写真が撮れなかった。


    写 真は、おもしろい。面白すぎて、ときに恐ろしいものだと、私は思っている。だから、あまりに短期間に、写真の核心部分に到達してしまうと、精神に異常を来 す危険がある。上に例を挙げた人々は、皆、写真の核心に触れた人たちなのだ。いわば、写真の殉教者たちだ。写真の核心に触れ、なお旺盛な創作意欲を失わな かった荒木経惟は、だから天才なのである。

    こ の写真の核心部分は、誰にでも到達できるものではない。これを垣間見ることができるのは、写真家の”資質”を持つ者だけだ。言っておくが、この”資質” は、必ずしも写真家になるために必要ではない。逆に、写真の核心から遠ければ遠いほど、その者は幸せなアマチュア写真ライフを送ることができるだろう。無 論私はそんな資質を持ち合わせていないが、この資質を持つアマチュア写真家を、私はフリッカーで何人か知っている。Sean Wood(motionid)。彼はそのなかの一人だった。そして彼はフリッカーを止めた。

    私は街の中にいた。風景の中ではなく、現実の中にいた。現実はカメラの中にしまいこんでおけ。カメラからフィルムを取り出してはいけない。でてくるのは死んだ風景なのだ。写真は死んだ風景だけだ。死景なのだ。  『舞踏する写真機』 荒木経惟より

    フリッカー。便利なものである。

    昨 日写真を始めたばかりの人でも、写真をアップすれば、世界中の人が見てくれる可能性がある。良い写真なら、たくさんのコメントがつく。世界中の人から賞賛 される快感。メールボックスにはたくさんのコンタクトのメールが来る。グループの参加申請が来る。時には、海外の出版社などから写真掲載の申し込みが来 る。そしてOFF会の誘い・・・。

    フリッカーは、写真という中毒性の高い代物に、これまた中毒性のあるSNS(Social Network Service)が合体したものである。ある意味で、究極のSNSだと言って良い。少し前に、「ミクシィ中毒」「ミクシィ疲れ」という言葉が流行ったように、SNS自体が、下手をすると生活を破壊しかねないほどの中毒性を持っている。そして上で詳しく述べたように、写真は、SNSなんぞよりさらに純度の高い「大人の麻薬」なのだ。

    私は個人的に、写真の怖さを知らない素人が、いきなりフリッカーをやるのは危険だと思っている。もし彼/彼女が写真家の”資質”を持つ才能豊かな者なら、なおさらその危険性は増すだろう。

    良識ある皆様アマチュア写真家におかれましては、適度に距離を置いて、無理のないフリッカー・ライフを送られんことを。